永源寺について

瑞石山永源寺の歴史

永源寺は、臨済宗・黄檗宗の各派15本山のひとつ、永源寺派大本山で、全国に127の末寺を擁し、坐禅研鑽と天下安全を祈願する古道場です。

南北朝時代の康安元年(1361)近江守護職 佐々木六角氏頼(うじより)公が、高僧のほまれ高い寂室元光禅師(じゃくしつげんこう)に帰依し、領内の勝景である雷渓(らいけい)を寄進し伽藍を創建したことに始まりました。

氏頼公は、高野山で僧の修行をされたこともある篤信の人で、その法名「雪江宗」および佐々木氏の嫡流であったことから「永源寺」と命名されました。

含空院
含空院

禅堂
禅堂

また山号の「瑞石山」は、はじめ飯高山と称したのを、伽藍の造営時に巨大な台石がわずかの人足の力で動いたこと、本尊 観世音菩薩が大岩の上に出現されたことなど、さまざまな石にまつわる奇瑞があり、それに因って改号されたと伝えられています。

禅師が入寺、開山されると、その高徳を慕う僧俗二千人あまりが集い、往時には山中に五十六坊もの末庵を有したといいます。禅師の滅後も弥天・松嶺・霊仲・越渓の四高足に受け継がれ、勅願所として朝廷や足利家の庇護を受け栄えました。滅後100年を数える応仁には、横川景三(おうせんけいさん)など京都五山の学僧が、戦乱を避けこの地に疎開しています。

しかし、政変に始まる争乱の火の粉は、ついに当地にもおよぶところとなり、明応(1492)、永禄(1563)と二度にわたって寺に火を放たれ、伽藍はことごとく焼け落ち寺運は衰退しました。

江戸幕府の寛永8年(1631)京都妙心寺の僧であった別峰紹印禅師(べっぽうじょういん)は、寂室禅師の旧跡である永源寺が見る影もなく荒廃していることに心を痛め、嘆願書をしたため、自らも石を曳き土を運んで寺観の復興に尽くされました。寛永20年(1643)後水尾天皇の勅命により一絲文守禅師(いっしぶんしゅ)(仏頂国師)が入寺されると、東福門院(徳川和子)と彦根藩(井伊家)の外護を得て伽藍が再興され、再び法燈が輝き、今に至っています。

井伊家の霊廟外観
井伊家の霊廟外観

本尊 世継観音(よつぎかんのん)

当山ご本尊の観世音菩薩は、永源寺が開かれて間もないころ、寂室禅師が夜ごと寺の東峰が輝くのをご覧になり、不思議に思い訪われると大岩の上に一寸八分の小さな観音像があり、これを喜ばれた禅師は中国より仏師 悟都管(ごとかん)を招き、中国の霊地の土でもって定印の観世音菩薩像を造らせ、その頭部に先の小さな霊像を納めて開眼され、ご本尊としてお迎えされました。

のちに佐々木氏頼公の子、満高公、世継ぎにめぐまれず、この観音に毎日祈願されたところ、二十一日目の夜、奥方の夢中にうるわしい女人が立たれ、「汝らの信心に感服し、一子を授けましょう」と申され、小さな刃を喉に投げ入れたと思うと目が覚め、それより懐妊の兆しあり、やがて月満ちると立派な男児を出産されました。このことが伝わると、だれ言うともなく「世継ぎ観音(よつぎかんのん)」と呼び讃えられるようになりました。

心より念ずれば、あらゆる厄難を除き、よき後継ぎにめぐまれ、子孫は安らかに、会社は繁栄、功徳無量の秘仏として信仰を集めており六百年の歳月を経た今も「観音さんにお参りしたら子どもが生まれました」とお礼参りに見える方はあとをたちません。

寂室禅師と観音さまのご縁は深く、かつて中国から帰国の海上にて嵐に遭うも空中に白衣の観音が顕れ、風波を鎮め難を救われた、という因縁があります。禅師が観音像をお迎えされたのはひとえにこの御恩に報いんがため、仏師に造らせた仏のご容貌は白衣の観音に似せた、と伝えられています。

~ 御 詠 歌 ~

あいがたき のりに あふみ逢う・近江の えいげんじ

ねがうは のちの よつぎかんのん

 

 

※秘仏のため平時はお姿を見ることができません。
約25年ごとの御開帳となっており、近年では平成28年(開山六百五十年遠諱)に開扉がなされました。

奥深き
歴史にふれる

拝観案内

参拝志納料 大人500円
団体20名以上450円、中学生以下無料
参拝時間:午前9時から午後4時まで

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