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永源寺について

― 瑞石山 永源寺の歴史 ―

 当山は、南北朝時代の興安元年(1361)に、時の近江守護職、佐々木六角氏頼公が、入唐求法の高僧、寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の土地を寄進して伽藍を創建したことが始まりです。
 禅師が入寺、開山されると、その高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したと記されています。
 師の滅後も、四人の高弟が教えを守り永源寺を受け継ぎました。応仁の乱の頃には、横川景三といった京都五山の名だたる僧達が、この地に戦難を避けて修行をされました。
 しかし、明応(1492)永禄(1563)と続く戦乱によって、当地も兵火の及ぶところとなります。伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退してゆきました。
 江戸時代中期になり、妙心寺の僧、別峰紹印禅師は、永源寺が往時の面影も無く荒れはてていることに嘆き、嘆願書をしたため、自らも石を曳いて復興のために尽力いたしました。弟子の空子和尚も永源寺第七十九世として住職され、彼らの懸命の働きによって、やがて名声高き一絲文守禅師(仏頂国師)を迎えることとなりました。これにより後水尾天皇をはじめ、東福門院(徳川和子)や彦根藩(井伊家)の帰依をうけて伽藍が再興され、ここに再び法燈が輝いたのであります。
 明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しましたが、後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。


― 御本尊(よつぎかんのん) ―

 永源寺の山門をくぐって少し歩くと、鐘楼の左正面、大きなヨシ葺き屋根の方丈があり、ここには当山の御本尊、「世継観世音菩薩」をお祀りいたします。
 秘仏として厨子の扉の奥に鎮座され、御開帳はおよそ四半世紀に一度、普段直接お姿を拝むことはできません。
 この仏様には、当山の開山様にまつわる次のようなご縁起があります。

 むかし、開山寂室禅師が、三十七歳にて中国への留学を終えられ、船に乗ってご帰朝の折に、海上大きな嵐にみまわれました。
 船上の皆生きた心地なく、最早海の藻屑かと思うとき、禅師が静かに祈りを捧げられると、不思議にも海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、ほど無くして濤風は鎮まり、ご一行は無事に祖国の土を踏むことを得ました。
 月日は流れ、寂室禅師が永源寺に住まわれると、夜毎にお寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこをお訪ねになると、大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
 禅師は「これはかつて海上で難をお救い下さった観音様に違いない」と深く感嘆され、わざわざ中国から仏師をお招きし、かつて修行された中国の土でもって観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、件の小さな霊像を納めて御本尊とされました。
 のちに近江守護職佐々木氏頼公の子、満高公が跡取りに恵まれず、この観音に毎夜一心に祈願をされたところ、夢にお告げがあり、やがて世継をお授かりになりました。この事が伝わると、だれが言うともなく「世継観世音(よつぎかんぜおん)」と呼び讃えられるようになったのであります。
 以来、一心に念ずれば善き跡継ぎに恵まれ、子孫は安楽、会社は繁栄、功徳無量の霊験あらたかな仏様として、篤い信仰を集めております。
 六百年の月日が流れたいまも「観音さんにお参りしたら、子供や孫に恵まれました」と、お礼参りにみえる方々はあとがたえません。